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~GO!GO! Fly Fishing!~

2011 311 ~あの日あの時~

※画像は全て拡大して見る事ができます。


釜石市 釜石駅裏 甲子川
画像データー 2011/03/11/13:28:50
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地震発生の1時間18分前。

やはり、川の中からはすっかり魚が消えてしまっていた。
水面では相変わらずカモたちがせわしなく餌を漁り、水辺では白鳥たちがのんびりと羽を休めていた。
何人かの人々と川辺で行き交いそして挨拶を交わし、日々大して変わる事のない全くの日常がそこに流れていた。
上流で大した収穫は無かったため、この後ライズを求めて北へ10Km程の鵜住居川へと向かった。




そして運命の14時46分、マグニチュード9.0の地震が発生してしまったのだ・・・。




私は引き寄せられるように釜石大観音のある岬の高台へと避難し、そこで想像を遥かに超えた自然の猛威を目の当たりにし、言葉を失った。


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破壊された世界一と言われる防波堤が望遠レンズ越しに見えた。
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その防波堤はここからなんと2.8Kmも離れている。
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そして4波目か5波目が引いている時だったろうか・・・
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・・・なんと!堤防の荷上場?に突如男性が現れたのだ!!
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靴を失っていた様で、動きが取れない。





車の中にウエーダーと長靴があったのを思い出し、取りに行こうと思っていたら・・・
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「来た!来た!だいじょうぶだ!!」の声に戻ってみると・・・。

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自力で瓦礫だらけの水の中を靴無しで渡ってきて、助けに向かった二名の男性に抱えられてこの方は無事救助されたのだった。




そしてまだなお複雑に絡み合い、幾度となく押し寄せそして引くを繰り返す津波。
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この津波は三角の波頭で襲うのではなく、水位を猛烈に上げたり下げたりを繰り返しながら全てを押し潰し粉々にし、飲み込んでいた。



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そして大型船舶も作業船も、その押し寄せる波の力で楽々と埠頭に上げられ、遂に海面に戻る事は無かった。




トンネル向こうの来た道を見に行くと、押し倒された家々と大量の瓦礫で帰り道が完全に塞がれてしまっていた。
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多分反対側の遠回りルートはもっと酷い事になっているだろう。
釜石大観音のある岬に閉じ込められてしまい、暫らくは家に帰れない事を覚悟した。




1日目、その晩は釜石商工高校にお世話になった。
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ここには自家発電機があったので、すぐにテレビで各地の悲惨な状況を知る事が出来、想像を絶する状況がそこに映し出されていくのをただ皆で見つめているしか無かった。





焚き火でしっかり温まってから車で寝る事にしたものの、放射冷却のせいかとにかく寒くて眠れない。
気晴らしに外に出て高台から海を見たら、数隻の船がサーチライトで海面を照らしながら、強い余震が続きまた来るかもしれない津波に臆する事無く、暗い海の物凄い瓦礫の中で捜索活動を行っていた。
・・・涙が出た。




3月12日 翌朝
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昨日の出来事が嘘のような穏やかで暖かな朝。
何事も無かったかのような静かで綺麗な海面が青く広がり、その沖の方には大量の瓦礫が、巨大な帯となって伸びていた。
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しかし音が無い。



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わずかに風の音しか感じられず、釜石湾は清々しくも不気味な静寂に包まれていた。






とにかく日中は、情報収集と無駄な消費を避けるため、ずっとテレビに張り付いていた。
悲惨な状況が次々に映し出されてはいたがしかし、それはどこか遠くの出来事のようにも思え、皆妙に落ち着いていたのが印象深かった。
そしてまた原発報道を見て、日本の原発危機管理能力がこれ程までにも幼稚でお粗末だったのかという事にとにかく驚き憤慨した。その後の報道でも、それはまるで出来の良い小学生の言い訳と嘘のようにも聞こえ、先進各国から冷ややかな批判に晒されるであろう事はこの段階からでも十分判断できた。




この日は午後から大平中学校にお世話になった。
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高台のため家屋被害の方よりも、私と同じようにこの地域に閉じ込められたドライバーの方が多かったように感じられた。


その晩は、小さな子供用柔道着を布団代わりにストーブのそばで寝たが、この日もとても寒かった。



3月13日、3日目の朝。
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予想だにしなかった、大船渡までの南ルートがほぼ確実に通れるようになった、との情報がもたらされた。


一週間は食えない事を覚悟していたため全く腹は減っていなかったが、出掛けにお握りを一つもらって腹に押し込み、帰路方向が同じで車を失ったという被災者を乗せて大船渡へ車を走らせた。

そして途中、同行者の車(会社のトラック)が止めてあるという唐丹町片岸地区。
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何もかもが破壊され、荒涼とした瓦礫野原と化していた。





遠近感が狂い現実感も無く、まるでSF映画の画面の中に入り込んでしまった様な感覚に囚われる。

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予想通り、彼の車も瓦礫の一部と化してしまっていた。



そしてその後、大船渡の権現橋を無事通り、内陸部へとなんとか抜ける事が出来たのだったが・・・。
・・・ようやくの体で遠野の我が家に帰り着くと、そのドアには何やら張り紙がしてあり、中には誰もおらず、妻と息子は私の実家へ向かい、そこで「おとうさんが死んだのでは?!」と皆で大騒ぎ!
そして私の無事が確認されるやまた一騒動となり、なぜかこの震災で「一番悪いのはお父さん!」ってことになってしまっていた。

せっかく生きて戻っても、やれやれ・・・なのであった。
by koubouquest | 2012-03-12 19:32